金持ち列伝ウォーレン・バフェットをご存知か(前編)本日と明日は、関ネットワークス発行「情報の缶詰9月号」掲載の「ウォーレン・バフェットをご存知か」をお贈りします。 1.世界長者番付第1位 世の中を動かしているのは誰か。残念だが、金持ちである。 ビル・ゲイツはウインドウズの開発によってパソコンを普及させ、世界を変えた。ロック・フェラーは石油王である。石油がなければ世界は動かない。現在の長者番付ナンバーワンであるウォーレン・バフェットはお金によって世界を動かしている。 パソコンや石油は目に見えるから理解しやすいが、お金は目に見えない。だから、イメージが沸きにくい。畢竟、バフェットを知る人は少ない。長者番付ではビル・ゲイツが94年から13年連続で1位であったが(バフェットは2位)、彼は2007年に資産を約6.4兆円とし、1位に躍り出た。 2.生い立ち バフェットは1930年に米ネブラスカ州オマハに生まれた。幼い頃からビジネスのセンスがあったようだ。祖父からコーラ6本を25セントで購入し、それを1本5セントで売り、5セント儲けることを覚える。 11歳の時に初めて株式を38ドルで購入したが、27ドルまで下落、40ドルになったところで売却した。しかし、その株は200ドルまで上昇し続ける。この経験からバフェットは忍耐を学んだと後に述懐している。 高校3年のときに中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始める。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すようになる。その後、退役軍人にこの事業を1,200ドルで売り渡す。 大学進学は、「賢明なる投資家」の著者であるベンジャミン・グレアム(証券アナリスト)がコロンビア大学にいることを知り、同大学のビジネス・スクールに入学、投資について学ぶのである。 3.長者への道 卒業後、バフェットは故郷オマハに帰る。株式ブローカーとして父の証券会社で働きながら、家族と友人から10万5千ドルを集めて投資会社を設立する。60年、1万ドルを投資する10人の医師を紹介して欲しいと友人の医師に頼み、11人のスポンサーを得る。当時投資した1万ドルは現在では5万倍の5億ドルになっているという。 その後、バフェットはシャツ・メーカーであるバークシャー・ハサウエーに目を付ける。1株あたり8ドル未満であり、経営を改善すれば業績が好転すると考えたのである。63年、バークシャーの筆頭株主になったが、経営は不振を続け、85年には再建を断念、投資持ち株会社として再出発を決意する。その間、バフェットはアメリカン・エクスプレス、ウオルト・ディズニー、ブルーチップ・スタンプスなどへの投資を続ける。 87年にソロモン・ブラザーズ(米投資銀行)が敵対的買収の対象となり、CEOのジョン・グッドフレンドがバフェットに助けを求める。バフェットはグッドフレンドを評価していたので7億ドルを投資、ソロモンの取締役に就いた。ところが、91年にソロモンの債券トレーダーの違法取引スキャンダルが発覚、グッドフレンドはこの事件により辞任し、バフェットがCEOに就任するという一幕もあった。その後も彼は、コカ・コーラなどへの投資を続け、資産は増え続ける。 こうしてみると、意外ではあるが、彼の長者への道は優良企業への地道な投資が基本だということが分かる。 彼の伝説で有名なのは、恐るべき記憶力の持ち主である。大学時代の友人から契約法について質問されると、「教科書の22頁の3段目だね」と云いながら、中身を正確に復唱したという。また、財務諸表を一目見ただけで、この会社の問題点は何かをピタリと当てるという。恐るべし、ウォーレン・バフェット(続く)。 ウォーレン・バフェットをご存知か(後編) 4.バフェットの投資理論 バフェットの投資は、ベンジャミン・グレアムの理論がベースである。 要は割安な企業を見付けて投資することであるが、数字に表れないものを含め、内在的な価値を持つ企業へ投資するという考えである。ただし、最近では優れた企業を相応の価格で購入すべきと考え、ROE(自己資本利益率=企業の収益性を示す指標)を重視しているようである。 バフェットの投資基準は、 (1)事業の内容が理解出来るか、 (2)長期的な業績が良いことが予想されるか、 (3)経営者に能力があるか、 (4)魅力的な価格であるか、の4つである。 事業の内容が自分にとって分からない分野には手を出さないため、ハイテク企業には投資をしない。また、長期的な業績を予想するためには、ブランド力や価格決定力がポイントであると述べている。 実際、彼が43年前に取得したバークシャーの株は4千倍の資産となっており、その間のS&P500の平均は68倍に過ぎないから約60倍のパフォーマンスを挙げていることが分かる。 5.バフェット語録 (1)「株式投資の極意 その1」 いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。株式投資の極意はこれに尽きる。 (2)「株式投資の極意 その2」 買うのは企業、株ではない。 (3)「投資のルール その1」 絶対に損をするな。 (4)「投資のルール その2」 絶対に(3)「投資のルール その1」を忘れるな。 (5)「リスク」 リスクとは、自分が何をやっているかよく分からないときに起こる。 (6)「世論調査」 世論調査は考えることの代わりにならない。当てにするな。 (7)「就職へのアドバイス」 尊敬できる人の下で働きなさい。 6.結論 これだけ金持ちであるバフェットの生活は意外にも質素で、今でも生まれ故郷の家に住み、年収は10万ドル(1,000万円強)程度という。遺産も既に85%を慈善財団に寄付している。金は墓場までは持って行けないのである。 こうしてみると、彼は偉大な人物には違いないが、特別なことをしてきた訳ではなく、結局、おいら達と変わりがない普通のまともな人間であることが分かる。 人の行く裏に道あり 花の山 本日から三日は、関ネットワークス発行「情報の缶詰2008年10月号」に掲載の「人の行く裏に道あり 花の山」をお送りします。 人の行く裏に道あり 花の山(前編) 今回お話しするのは、最後の相場師「是川銀蔵」である。 1.相場5カ条 自分の金と才覚で、生涯、株で儲けた額が200億円以上である。明治30年に兵庫県赤穂市の貧漁(漁師の7人兄弟の末っ子)として生まれ、平成4年、95歳で他界する。 是川銀蔵は、最後の相場師としてその名を歴史に残した。その是川銀蔵の「相場5カ条」である。 (1)銘柄は人が奨めるものでなく、自分で勉強して選ぶ。 (2)2年後の経済の変化を自分で予測し、大局観を持つ。 (3)株価には妥当な水準がある。値上がり株の深追いは禁物である。 (4)株価は最終的には業績で決まる。腕力相場は敬遠する。 (5)不測の事態など、リスクはつきものと心得る。 2.波乱万丈の人生前期 家が貧しかったので、高等小学校を卒業後、直ぐに貿易商である好本商会に丁稚奉公に出された。しかし、是銀がそこで見たものは、金策に追われる主人と倒産の憂き目である。 ここからが是銀の真骨頂である。使用人では人生は一生開けないと若くして悟る。そこで、経営者を目指し、ロンドンに出立する。是川銀蔵17歳である。中継地である中国に着いたとき、第一次世界大戦が勃発したため、日本軍がいる青島を目指した。是銀は日本軍の御用商人(現地で一厘銭を鋳造)として大儲けするが、贈賄容疑で一転逮捕され、裸一貫で帰国することになる。 その後、関東大震災ではトタン板を買占め、バラック建設用のトタンとして仕入れ値の10倍以上で転売に成功するという逸話を創る。しかし、直後の金融恐慌で取引銀行が倒産、再び無一文に転落するという波乱盤上の人生を経験する(続く)。 人の行く裏に道あり 花の山(中篇) 3.34歳で相場師に名乗りを 是銀が凄いのは、それから3年間毎日図書館に通い、資本主義がこれからも続くのかどうかの研究に没頭したことである。 時代は金融恐慌の真っ只中である。資本主義の終末なのか、一時的な現象なのかを是銀は見極めたかったのだ。結果は「資本主義は崩壊せず」であり、この3年間が株式相場研究の基礎を作ったのである。しかし、その間の収入はなく、家族は極貧の生活を強いられたという。 こうして、是銀は34歳で相場師の名乗りを挙げ、実業界で活躍することになるが、その後約30年間、本格的な株の活動をせずに歴史から姿を消す。 4.63歳で本物の相場師に 昭和35年に株の世界に舞い戻る。是川銀蔵、63歳のときであった。 最初に仕掛けた銘柄は、日本セメントである。是銀はそれまで儲けた金を全て日本セメントに注ぎ込む。日本セメント株は長期に渡り低迷しており、誰も見向きもしない株であった。しかし、是銀はこれからセメントの需要が増えると見込み、ファンダメンタルズ理論から3千万株を所有する個人大株主となったのである。会社からは「乗取屋」と思われながらも、業績回復局面で見事に売り抜け、当時の金で30億円という大金を儲ける。 冒頭に掲げた「相場5カ条」も常識的だが、この株相場もオーソドックスな投資で理に適っている。 5.同和鉱業 是銀相場の第2幕である。 株の極意は「安値圏で買って、高値圏で売り抜ける」ことである。簡単なようで難しい。普通の人はその逆で、高値圏で提灯を買って、安値圏で狼狽売りをする。 さて、是銀は同和鉱業を安値圏の30億円で買った。同和興業株は一時、高値圏で300億円まで値を付ける。しかし、是銀は売り抜けず、買値の30億円で処分することになる。 ただし、彼はこの金で「是川奨学財団」を設立、自分のように恵まれない子供たちへの奨学金を支給するという慈善事業に発展させるのである(続く)。 人の行く裏に道あり 花の山(後編) 6.最後の大勝負 是銀、最後の大勝負である。住友金属鉱山を仕手株に変えるという大勝負になり、彼は狂ったように住友金属鉱山に肩入れするのである。世間が是銀の買い占める銘柄に注目したのは、云うまでもない。 しかし、誰も今さら金の時代だとは考えないのである。おいらもこの当時(昭和56年)のことをよく覚えている。「是銀もヤキが回ったものよ」と考えていたのである。今から思えば、赤面の至りである。 当時84歳の是銀はあれよあれよと5千万株を買占め、今度は見事に売り抜けに成功するのである。是銀の得た利益は、200億円であった。 このときのエピソードを紹介しよう。きっかけは日経の「金属鉱業事業団、鹿児島県菱刈金山に高品位金脈を発見」という小さな記事であった。 是銀は、朝鮮半島で金山を開発した経験があるため、事業団の発表した「700m間隔のボーリングの結果、たまたま2本の深鉱場所が高品位の鉱石に当たっただけ」という説明に対し、金鉱脈は千本ボーリングしても数本あたるかどうかが普通であり、2本ボーリングして2本とも金鉱脈にあたるというのはまぐれではないと、彼はその時点で大金鉱脈の存在を確信したのである。 その後、是銀は住友に西側の鉱区を早く5億円で買いなさいと助言するが、住友側は所有者の経済的窮地を知っており、「いずれ3千万円程度で泣きついてくる」と知らん振りであった。 是銀は「天下の住友ともあろうものが、相手が破産寸前だからと十億円以上の価値のあるものを買い叩こうなど、そんな酷いことはおやめなさい。これから大事業をやろうとしているときにそんな精神では成功しませんぞ。相手が弱っていれば、それだけ高い値段で買ってあげるものです」と諭したが、住友は買わず、結局是銀が5億円で買収した。 所有者は3千万でも住友に売るつもりでいたから、銀蔵に何度も礼をいったという。その後、住友は是銀に頭を下げてその土地を買うはめになるのである。 是銀は、男を証明した。ただし、本当に勝ったのは国税であった。是銀は200億円の利益を得て、翌年、長者番付第1位に名を連ねるのだが、所得の申告漏れを指摘され、利益の大半をお上に没収されるのである(当時の株のキャピタルゲイン課税は累進課税で手取りは少なかった)。 是銀はその後相場に失敗し、亡くなったときは約24億円の借金を残すことになり、遺族は相続放棄を行った。しかし、是川財団は奨学金を支給する慈善事業を今でも行っているのである。 だが、読者諸兄よ、このような相場師が今の時代にいるだろうか。その是銀の好んだ言葉は、「人の行く裏に道あり 花の山」「人間は金の奴隷ではない」 決断力に富み、人間としての魅力に溢れる人物であり、生活はいつも質素であったという。是川銀蔵、最後の相場師である(この項終わり)。 江戸時代の一両 ネットサーフィンをしていると、面白い話題に出くわす。 「江戸時代の一両っていくら? 一両で買えるモノリストが話題にー秒刊SUNDAY」(6月6日)というのも、そうである。 それによれば、当時の一両は現在の約10万円に相当するとされている。 しかし、おいらがまだ中学生だった頃に何かで読んだ記憶では、一両は確か1万円相当であった。 だが、現在の貨幣価値で考えてみると、小判一両が1万円では少々安すぎるような気もする。今の1万円にそれほどの価値があるとは思えないからだ。 そこで、この記事が10万円とする根拠を見てみよう。 一両は銀60匁(元禄以前は50匁)で銭4千文であり、江戸時代中期であれば1文が25円換算の計算として、10万円と推測しているのである。 1文が25円というのは、 うどん・・・(10文)約250円 お風呂・・・(5文)約130円 団子 ・・・(2文)約60円 大根 ・・・(10文)約250円 スイカ・・・(26文)約670円 マグロ・・・(133文)約3,300円 などから換算したようだが、現在のうどんの値段が250円で適正かどうかは評価が分かれるところであろう。だが、そうは云っても、10万円の価値というのは当たらずといえども遠からずのような気もする。 さて、こうしてみると、おいらが覚えていた昔の1万円というのは何だったのだろう。 これは、高度経済成長時代のインフレによるものと考える他はあるまい。 大卒初任給を調べてみると、1965年は2万4千円である。現在では約20万円であるから(2004年は20万4千円)、8.5倍の伸び率である。 やはり、10倍になっていたと考えても不思議ではない。一両は概ね10万円なのだろうねぇ。そうすると座頭市の賞金首が50両だとすると、500万円の賞金になる。剣に自信があれば、市を狙おうとする気持ちも分からないでもないのぅ。 ジャンル別一覧
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